プラカードを掲げる
告知の類が苦手だ。自分のことについて発信するなんておこがましい、と思っている節がある。それに発信したのに反応がなかった時のことを考えると、とても怖い。そうやって防衛線を張ってしまう。でも実際には、自分が思ってる100倍アピールしないと伝わらない。そう頭では理解している。情報が溢れているから。
昔、教科書か何かで、SNS上での発言を「道路の交差点でプラカードを掲げる」ことに喩えた話を何度も聞かされた覚えがある。それくらい目立つことだから、発言には気を付けろ、という趣旨なのだが、よくよく考えてみれば、それが目立つのは少数の人間がプラカードを掲げているときだけだ。
今となっては、全員が全員、交差点でプラカードを掲げている。掲げることが当たり前の世界では、誰もそれぞれのカードを読んでなんかいない。むしろそう言った状況に疲れて、できるだけ目をつぶって交差点を歩きたいと思っている。
そんな状況で、SNSで発信していくことはどんどん難しくなっている気がする。
NHKの番組で、庵野秀明が「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきている」というような発言をしていた。
皆、情報の断片に疲れているのだと思う。情報があふれる世界、陰謀論や出典のよく分からないものにはデフォルトで不信感がある。そこでは誰もが自分を納得させるために、あるいは対象となる存在を認めるためにストーリーや一貫性を求める。
謎に包まれたもの、に対してはストーリーや一貫性を自らでつくる必要がある。余程魅力的なものでない限り、受け手はそんなことに時間を費やしてはくれない。
ストーリーが既にある、ということは客観性の有無にも関係しているのかもしれない。好きだ、という主観ではなく、自分の他にもこの対象を好きな人が多いらしい、という客観性。レビューで主観が歪むように、客観を重要視してしまう時代。
そうやってストーリーや一貫性や客観性を追求するあまり、本質を見失ってしまう。
今は過渡期と思えば、ゆくゆくは皆、ストーリーや一貫性に疲れてしまう時代がくるのかもしれない。
そんなことが頭の中に駆け巡るから、告知の類は苦手だ。