作り手になるとき

休暇最終日、日中は諸々書類の整理をしつつ、夕方は2回目のシンエヴァを観に出かけた。

1回目は、軽い気持ちで観に行って衝撃を受けた。序破Qと新劇場版は観ていたものの、最後に観てから時間が経っていたこともあって、公開されたのだから観なくては、くらいの気持ちで観に行った。頭から最後まで衝撃だった。3時間があっという間だった。

数年前、よく全体像が掴めていないままQを観て、その黙示録的な世界観に引き込まれたことを思い出した。終末思想的な映画をみると、昔少し教えを受けていたキリスト教のことを思い浮かべる。ラッパが吹かれて天変地異が起こり、戦いが行われた後に、新たな楽園が成立する。ヨハネの黙示録は、怖いと思いつつも、子供ながらに引き込まれる世界観だった。

エヴァで描かれる使徒と人類補完計画は、まさにそれだと思った。が、Qの時と違ったのは、人物の心理描写が克明に描かれていたことと(それこそがエヴァの真骨頂であることは、後にTV版や旧劇を観てから理解したが)、グラフィックが格段に向上していたことだと思う。そこに衝撃を、感動を受けた。

(その後、解説本である『パラノ・エヴァンゲリオン』『スキゾ・エヴァンゲリオン』、それから貞本版の漫画を全巻読み、TV版を一気見し、旧劇場版を観て、今回の2回目に臨んだのだった。)

あまりに感動してしまうと、自分の場合、その世界に入り込みたくなる。入り込みたいというのは、スクリーンの中に入りたいというのではなくて、自分も作り手側に回りたいという気持ちが大きくなるという意味だ。おこがましいことだとは分かっていつつも、自分も、自分を感動させてくれたように、同じように誰かを感動させるようなものを作りたいと思ってしまう。そう考えはじめると、どうやってこれは作られたのだろう、とだんだんそっちが気になってくる。もちろん登場人物の細かな設定も気になりはするが、メイキングや作り手の頭の方に興味がある。そこにある意図と、感動のための論理が気になってしまう。

音楽を始めた時もそうだったし、今の制作に繋がるプログラミングを始めたのも、きっかけは自分の衝撃的な感動だった。

今日のQuartzのニュースレターに、雑誌の編集者について書かれた部分があった。津野海太郎さんという編集者の方の言葉が引用されていた。

私たちのまわりにある雑誌のおおくはプロではなくアマチュアの仕事として、すなわち、読者の側からつくる側にまわりたいと願う昨日までの読者たちの手によってはじめられた。『歩く書物:ブックマンが見た夢』

まさにこれだと思った。誰でもはじめ、受け取り手から、作り手へと回りたい瞬間があったはずなのだ。それはきっと強い感動なのだと思う。

それを受け取った人が、つくる側にまわりたいと願うようなものを作りたい。

人は自分が感動したものしかつくれない。のであれば、感動させる何かを作らない限りは次につながらないのだ。