多い街、フラットさへの憧れ

仙台で、昔よく行っていた上島珈琲店に入った。席について一息ついていると、ふと「何だか東京っぽいな」と思ってしまった。というよりむしろ、仙台っぽさから束の間抜け出した感じ、がした。外が見える窓際ではなく、奥まった席に座ったからかもしれない。目を覚めていきなり「ここは東京だよ」と言われても信じてしまうだろうな、という感じ。

地下道へ、地上から降りているときにもそれを思った。どこも同じじゃん、と。たぶん正確には東京っぽいのではなくて、単にフラットな空間なのだと思う。

逆の感覚にも心当たりがある。初めて東京に行った時のこと。東京は地元とは全く違うすごい場所なんだ、と思っていて、実際、バスを降りて目前に広がる新宿はそんな街だった。でも電車でいろんな街に行くうち、どこも変わらないな、という気持ちになった。

中心から離れれば離れるほど、建物の高さも街の色も、側溝の雰囲気も、大体似てくる。街によっては、地元のこの場所っぽいとか、坂の入り組んだ感じがどこか懐かしいとか、そういうことを思う。

昔は東京は『大きな街』だと思っていた。それはある意味で正しいけれど、今は『多い街』という方がしっくりくる。人も情報も多いが、同じように街もたくさんある。地元の駅前のような街が、とにかくたくさんある。

街が多ければ選択肢も多い。その選択肢を求めて東京に人が集まる。仕事の機会やチャンス。出会い。選択肢が多いから、東京にならなんでもある、と考える。

確かになんでもあると思う。実際、地方には偏りがある。独特の雰囲気があり、産業があり、街がある。街の数も多くはない。

たとえば子供の頃、というか学生の頃でさえ、会話の中で『街』という単語が出た場合、それは『仙台駅周辺』を指していた。ある意味で方言なのだろう。それくらい、街の数が限られていることの表れかもしれない。

当然、学校や就職についても、様々な理由から『限られた』選択肢の中で考えることになる。確かに東京と比較すれば『限られて』いる。

そういった言葉や状況を経るうちに、だんだんと東京に対する憧れだけが膨らんでいった学生時代だった。けれど結局のところ、それは地元の偏りに対する反動だったんだなと思う。東京への憧れは、フラットさへの憧れだった。

だって情報源がTVや雑誌しかなかった頃、その中心は東京だった。グルメ番組も音楽番組も、東京のお店やライブハウスばかりを取り上げていたから、そりゃ憧れも大きくなる。

こんな捻くれたことを思っていたから、物心ついていた頃から東京や関東で生活していた友人のことが気になったりする。東京への憧れがなかったら、彼らはどこに憧れていたのだろう。早々にニューヨークに憧れていたのだろうか、などと。