楽器をつくる

割と今やろうとしていることはテクニカルアーティストに近いんじゃないかな、と思ってきた。アーティストがやりたい表現や世界観を実現するために、技術的にどう解決するかを考える。エンジニアとして手を動かすので、アーティストとエンジニアの橋渡し、ともちょっと違っている。

ただ、エンジニアから要望を受けることもあるので、ちょっとTAには当てはまらない部分もある。

自分としては、新しい楽器を作る、という気持ちでやっている。音楽家の要望を汲み取りながら、自分の理想も込めて作業をする。最終的には楽器をつくることがゴールではなくて、その楽器から、これまで聴いたことのない曲や、グッとくる曲が生まれることがゴール。

休暇中にも近しいことを考えていて、自作シンセ制作の準備を進めていたことが今の心境にフィードバックされているだけかもしれない。

ただ、日本のシンセが世界の音楽に影響を与えた、という事実はいつも考えていることだったりする。シンセをつくるエンジニアは、未来の音楽をつくっていたのだ、と考えるとめちゃくちゃかっこいい。

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35150

https://www.youtube.com/watch?v=CHV2ui-PEBY

小休止

最近、無駄に自分で自分を追い込んでいる気がする。

小休止。ひとまず1ヶ月毎日blogを更新してみようと思っていたが、やっと折り返しを過ぎたあたりか。

SNSに馴染めない

最近SNSをほとんど見なくなった。気付いたらTVも、一度部屋のレイアウトを変更するために一時的にコンセントを抜いてから、ずっと電源をつけていない。

もっぱらGoogle Nest Miniのニュースや、Podcastの好きな番組で情報を得ている。

で、久しぶりにTwitterを開いたら、向こう側から積極的に介入してくる感じがしてちょっと途方にくれてしまった。割合でいうと欲しい情報30%くらい。ただ残りの70%の中にも面白い内容はあって、それのせいで時間が融けてしまう。

SNSのその70%からのセレンディピティというか、思いがけない発見の機会が失われてしまうのが怖くて退会するのは難しいな、と書こうと思ったけど、正直、発見の機会なら本でもPodcastでも大差ないと気付いて悲しくなる。

そもそも日常の中の機微が重要なのであって、日常と非日常が融けているSNSの中にそういった高尚なものを求めるのがどこかズレているのかもしれない。

SNSが他のメディアと異なるのは情報のリアルタイム性や、編集の有無、双方向性。この3つの事項を考えると、人との対面コミュニケーションそのものな気がしてくる。

コミュニケーションが大事、と言われる中で、SNSでエンパワーされた過剰なそれや無意味なそれに疲れてしまっている気がする。TikTokを開いた時にウッとなるのは、情報の作り手が必然的に、受け手を過度に意識したコンテンツばかりが並んでいることで、さらに言うと、自撮りなどで自分を曝け出すことも厭わない人々が、最終的に持ち上げられている構図が甲斐見えるからなのだと思う。

勿論、動画というフィルターを通してある意味自分自身を『キャラ化』することで、アイデンティティを確立しているという人も多いわけで、そこにとやかく言えることではないのだけど、やっぱりウッとなってしまうのは、世代が違うからなのだろうか。

TikTokにコンテンツを上げられなくて、でも悶々と別なことをやっている若者の話が聞きたい。

Oblaat

〇〇を勉強したいというとき、これをやったら役に立ちそうという場合、それは単に心理的なハードルを下げたいから、という理由によるところが大きい気がしてきた。

つまり、内的な衝動ではなく、外にモチベーションの核があるということ。

例えば、ある技術を取得したいと思って参考書を購入するとき、それをやったら面白いという気持ちはもちろんありつつも、購入の理由の大部分を占めるのは、それをやることで早く安心できる状態になりたい、ということなのではないかということ。

結果的に技術が取得できるのであればそれで良し感があるけれども、どうせなら衝動的に始めた事柄の方が多い状態の方が、精神衛生上良い気がする。その方が長続きする気もする。

今やろうとしていることはどちらだろう。腰を据えて考えないと、やる気のオブラートはけっこう分厚くて剥がせない。

英語

DMM英会話を始めることにした。

ひとまず会員登録。まずは無料体験!と告げられたが、うかうかしてるとやる気が無くなってやらなくなるし、初月は半額だし、ということで有料会員になった。アプリや色々な教材もついてくるしそこそこお得感がある。

英語がもっと話せれば仕事の幅が広がるな、とは前から思っていて、本当は休暇中にも始めてしまおうかと思っていたけど踏ん切りがつかず。改めて先日、仕事で使いそうな雰囲気が出てきたので、慌てて始めている次第。

仕事の幅、という気持ちもありつつ、本当は自分の視野が広がるのではという興味の方が大きい。普段テキストで英語に触れることはあっても、いざ外国人を前にすると緊張してしまってうまく話せなかったりする。研究室やそれ以外でも外国の方と話す機会は少なからずあったが、フラットに友達として接することができない自分がもどかしかった。だからそのメンタルをちょっと直したい。

幼稚園、小学校とありがたいことに英語を習っていて、中学のはじめにアメリカに行くことができたのは本当に恵まれていたなと思う。そしてその頃が一番英語に対してフラットに構えることができていた。大学や前職でも、海外に何度か行く機会があったのだが、その頃になるともはや英語は少し離れた存在で、現地の人々と話すときもどこか自分自身でバリアを張ってしまっている気がしてもどかしかった。そういった感覚に自覚的になれたのはここ数年のことだ。

それこそ数年前、CESというラスベガスで開催された家電見本市に参加した際、ひょんなことから簡易DNA検査をすることができたのだが、その結果の唯一良かった項目が『語学能力に優れている』だった。

そんなこともあって、ちゃんと外国語を学べばいいことあるんじゃないかと思い込めているし、巡り巡って日本語についても意識的になりたい。

言葉・機械

久々にお酒を飲み、若干二日酔いのようになってしまった。なので書く気力が極端に弱い。

昨日は本郷にあるトーキョーアーツアンドスペースというところに、知り合いの展示を観に出かけた。TOKAS-Emerging 2021というイベントで、GengoRawという方々の作品が目当てだった。昔一緒にお仕事をしたことがある方が所属していることもあって常々活動を拝見しており、久々に話をしたかったという気持ちもある。

この会場は初めて訪れる場所だった。メトロに乗って御茶ノ水の駅で降りる。この街自体も久々で新鮮だったが、医学部の脇の方を歩くのは初めてで、それはそれで楽しかった。傘を差すか差さないか、迷うくらいの小雨が降っていた。

10分ほど歩き、会場に入る手前、少し高い壁に蔦の緑が広がっている場所があった。その前には赤いポストがあって、コントラストがとても綺麗だった。写真を撮った。

小さなギャラリーに入る時はいつも、少し緊張する。

会場では、2FがGengoRawのスペースだった。階段を登ると、薄暗い空間に、ことばと機械学習を使った作品群がいくつか並んでいた。

https://www.youtube.com/watch?v=w6sqIsra3ps

人間は言葉を使ってコミュニケーションをとる。他人や自分と。無意識すぎて気づかないくらいに思考は言葉の影響を受けているのだと思う。

夢を見たときに流れる声も、こうやって文章を打つ直前に頭の中に浮かぶ声も、日本語という自然言語である。母国語が異なれば、きっとそれも変わってくるだろう。

なんとなく雨で、なんとなくギャラリーに向かう途中に感じていたドキドキも、『緊張』という言葉があるからそれを捉えられる。なんとなく見かけたポストに目が止まったときも、『コントラスト』がはっきりしているから、と理由づけができる。その言葉や概念を過去の経験と紐づけることで、目の前で今まさに思っていることをフレームの中に捉える。フレームの外にあることは一旦置いておいて。

作品を観て感じた面白さや興味深い点は何か、と考えたとき、それはAIや機械学習を通じて、自分自身やはたまた人間自身について、思いを巡らせてしまう点にあるのだなと思った。

あるキーワードを与えると、プログラムと人間とがそれぞれ詩を書いてくれる、という作品があった。その過程はブラックボックスで、キーワードを与えてから3分ほど待っていると、2枚の紙にそれぞれの詩が印刷される。そうやって生成された2つの詩を読んで、「こちらの方が違和感があって機械っぽい」「こちらの方が人間らしい」などと考えたりする。

例えば同じようなことを、機械じゃなくて猫ができるようになったらどう感じるだろうか。微生物ができるようになったらどうだろうか。創造的な猫、創造的な微生物。まずは信じることができないだろうが、感覚的に、AIとは全く違う体験になるのが想像できる。そもそも「猫っぽさ」「微生物っぽさ」がわからないから、「人間っぽさ」についても思い至らない。

AIによる創造が面白いのは、AIが個体ではなくデータという総体からつくられているということと、そのデータ元が自分自身に関係しているということだと思う。

わからないまま

新たな環境に身を置くとわからないことばかりだ。

これまでの生活では接点のなかったことがバタバタと自分の中に入ってくる。バタバタ入ってくるからビシバシそれらを処理しようとする。「わからない」を「わかった」状態にしようと必死になる。

言葉の意味がわからないとか、プロジェクトの全体像がわからない、とかは早めに潰しておくべきことだと思う。でも、感覚的にどうしても「わからない」こと、はそのままにしておくことが大事なのかもしれない。

感覚的に「わからない」ことは悪ではなくて、「違和感」という単なる捉え方の違いだと思う。

おそらくそれを流してしまうと、慣れによって違和感が消える。場合によっては感情を抑制することにも繋がる。

なんとなくわかった気になって流すことよりも、わからないままにしておきながら、そのわからなさについて考え続けること、があとで重要な意味を持つ気がしている。多分それはそこそこ大変なことだけど。

水調査

退職前、休暇中、そして新たな組織に所属し始めた今、やるべきと思っていることが全く異なっているのがわかる。

組織から離れていた休暇中、ここ数年で偏ったかもしれない頭の中身を一度リセットしたくて、過ごす場所を変えたり、新しい習慣を整えたり、何もしない時間を確保していたりした。そうするうち、懐かしい感覚、大学の頃のモラトリアムのような感覚に陥った。どこにも軸足を置いていない浮ついた感覚。

そんな感覚の中、緊急事態宣言で思うように動けなかったこともあり、ひとり不安が膨れていった。一方で考える時間が増えた分、どこか頭の片隅にあった業界や肩書や人間関係の影響の大きさに気づくこともできた。それが一つ一つ、フラットになっていくのが痛快だった。

それが早々に飲み込まれようとしている部分があるのを感じている。

飲み込まれる、というと悪いように聞こえるがそういうことに限らない。どこからが本来の自分の考えで、どこからが影響によるものなのか、を区別したい気持ちが働いてしまっているだけだ。

本来の自分、なんてものは存在しないと思うけれども、例えばフラットな水面があるとして、そこにバサーっと水が注がれた時に起こるしぶきだったり波の高さについて考えないと居心地が悪い。もっと言えば、その水の色もめちゃくちゃ気になる。

思いも寄らない色の水だったり、量のものが注がれたときに、それを受け入れるべきなのか。それとも排水口にジャバーっと流してしまうのか。

混ざり切ってしまったら一部を流すことは難しくなると、なんとなくどこかで分かっているから、その影響について考えてしまう。

うかうかしていると、水位が上がってキャパオーバーだ。

毎日何かしら書いていくことは、その確認の方法の一つ、水質や水位の調査をしているようなものだと思ってやっている(少し鬱々としすぎてるけど)。

わからないことにぶち当たる快感

わからないことにぶち当たることと、そこで生じる不安は別のものだと気づいた。

わからないことにぶち当たっても、そこに心理的な安全があれば、それを克服する自分を想像して快楽に、実際に克服する過程が娯楽になり得る。

一般的にわからないものが出てきて不安になる場合は、わからないことそのものではなく、そこから生じるプレッシャーや人間関係や過剰な期待が原因になっているのだろうと思う。

わからない→不安、わからない→好奇心

この感覚の違いは経験や環境で変えることができるだろうか。できると嬉しい。

新しい名刺

新たな会社にJoinした。出社して色々教えを受けながら挨拶や環境構築を進めている。

久々の感覚にモチベーションが上がる。日本人以外のメンバーも多く、またそれぞれの職種もバラバラで独立している感じが心地良い。

早速名刺も受け取った。

Experience Architect / Engineer と名乗るからには、それなりの行動で示していきたい。肩書きには囚われすぎたくないと思いつつ、良い方向に良い方向に、使えるものは使っていく。

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