パズル

久々に日記を書いている。急にそういう気持ちになったからだ。ただ以前と違って、これから30日絶対に続けようという感じではない。何となく文字を重ねたくなっただけで、無計画だ。だが計画的に、半強制的に動くよりも、こう雰囲気で始めたことの方が続く、ということが経験的にわかってきたこともある。勿論これは一般的な話ではなく、自分の思考の癖の問題だ。

日記を書くのを一時中断してから — ちょうどそのとき写真のレタッチの練習も毎日やっていたが — それらをやめてから、リズムが崩れてしまう気がして、別なデイリーワークを始めようと思った。それで、デイリーコーディングと称してTouchDesignerを、デイリーミュージック?と称してAbletonで遊ぼうとした。だけれどこれは長く続かなかった。

日記も写真も、負荷が低い作業だったから続けられたし、リズムが明快だった。5分で終わらそうと思えば終わらせられる一方で、いつまでも続けられる、フロー状態に入りやすい類のものだった。

TouchDesignerはまだしも、音楽制作をうまく日常に組み込めていないのはここが原因なのだと思う。5分とまではいかずとも、10分、30分である程度進められる地力が身についていない。Against The ClockというFact MagazineのYoutube企画があるが、あの域に達するには相当な試行の積み重ねが裏にある。

と、これくらいの文章であれば10分くらいでかける。それはちょっとしたパズルみたいなものだ。

パズルのピースを探す、あてはめるような感覚で、やりたいことを続けられるようになりたい。1日で全てを完成させる必要はない。何より強制的にやることではない。

完成の瞬間は一瞬だし、完成したら額に入れて飾るくらいで、その存在を忘れることさえある。パズルのほとんどの時間は、穴の形を見極めてピースを探す時間で、その考えている時間が醍醐味だったりする。

そう簡単な比喩でまとめていいものか、と思うが、要は楽しくやれればいい。完成したパズルを見せびらかしたり、途中経過を報告することは本質じゃない。

誕生日

誕生日だった。ついに30歳になってしまった。誕生日を迎えた人はみんなどう思うんだろう。特に30になったときは何を思うのだろう。

去年、一昨年あたりはとても焦っていたように感じる。転職のことも考えていたから、30になる前に確実に成果を残そうと必死だった。それでコンペにも出したし、音楽も続けたいと作品を残すことに拘った。結果、コンペは少しだが引っ掛かり、音楽は満足できるほどではないが、作品をいくつか残せた。

世間には人生は20代で決まる、みたいな言説が溢れている。とやかく三十路が近づくにつれそういった文言が目につくようになっただけかもしれないが。それのせいもありかなり焦った。

しかし焦りはよくない。結果として付け焼き刃になるのを身に沁みて感じた。

そもそも大学を出たのが25になる歳で、社会に出てから20代が終わるまでに5年しかない。つまりその言説は、大学の頃から余命考えとけ、ということと、あと5年で勝負を決めろ、ということに他ならない。そんなことあるか。まあ5年で人生変わったけども。

そうやって遡ると、結局大学の影響がめちゃでかいな、となる。実際、周りを見渡すと同分野には一定の界隈の大学出身者がなぜか多い。し、彼らは大学の頃から仲間になっており、地方の大学でぼんやり過ごしていた(それが悪かったと言われたらおしまいとわかりつつ)自分はやはり地域格差をどうしても感じてしまうのだ。

話が偏ってきたが、確かに20代は10代よりも濃厚な時間だった。大学の6年間は音楽に浸かりながら創作について考えたり、パートナーにも出会えたし、考えが変わるような作品にも多く触れられた。前職での5年間は、それこそ前述のような東京の学生のノリやカルチャーだったり、全く違う広告という分野の中でいかに良いものを、良い成果をあげるかということを考えられた。

大学ではよい音楽を作りたいと必死だった。いまはクリエイターやプログラマの中でよい作品を残したいと必死になっている。環境は変わっても、作品が大事だというスタンスは大きくは変わっていない。変えられていないともいえる。

良いものとは何か。作品とは何か。それについての感覚は徐々に変わってきている。社会にとって良いものと、自分にとって気持ちいいものは違うということ。もう、自分には世間に広まるような音楽は作れない。それでも音楽を止める気にはなれない。だから純粋に自分だけのためにやりたい。一方でプログラマとしては何故か存在を求められる。であればそれを使って社会に貢献する術を考えるか、多少なりとも。というスタンス。投げやりに聞こえるが、その逆だ。

そういう考えに至ったという点で、確かに20代で人生決まってしまったのかもしれない。けれども変化はこれから先いくらでも起こるだろうと思う。20代で人生決まるよ気をつけて、という言説はきっと、家族や子供のことを考えるとどんどん自分の時間が取れなくなり思うように動けなくなる、ということが言いたいのだろう。

でもそういった家族や子供との生活も皆一様なものではない。それにどうしたってネガティブなものと捉えるべきではない。自分のための時間が少なくなることによって良い方向に転がる人生もある。というかそんな刺激的なことがあったら見えないものが見えてくるに違いない。誰に、他の人の人生を決定論的に述べる権利があるのか。

と、今は割と前向きな気持ちだ。20代が10代よりも濃厚だったのは、色々な人とぶつかり合って、色々な体験ができたからだ。30代を20代よりも濃厚にするために、またたくさんの人たちと体験を共有していきたい。

プラカードを掲げる

告知の類が苦手だ。自分のことについて発信するなんておこがましい、と思っている節がある。それに発信したのに反応がなかった時のことを考えると、とても怖い。そうやって防衛線を張ってしまう。でも実際には、自分が思ってる100倍アピールしないと伝わらない。そう頭では理解している。情報が溢れているから。

昔、教科書か何かで、SNS上での発言を「道路の交差点でプラカードを掲げる」ことに喩えた話を何度も聞かされた覚えがある。それくらい目立つことだから、発言には気を付けろ、という趣旨なのだが、よくよく考えてみれば、それが目立つのは少数の人間がプラカードを掲げているときだけだ。

今となっては、全員が全員、交差点でプラカードを掲げている。掲げることが当たり前の世界では、誰もそれぞれのカードを読んでなんかいない。むしろそう言った状況に疲れて、できるだけ目をつぶって交差点を歩きたいと思っている。

そんな状況で、SNSで発信していくことはどんどん難しくなっている気がする。

NHKの番組で、庵野秀明が「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきている」というような発言をしていた。

皆、情報の断片に疲れているのだと思う。情報があふれる世界、陰謀論や出典のよく分からないものにはデフォルトで不信感がある。そこでは誰もが自分を納得させるために、あるいは対象となる存在を認めるためにストーリーや一貫性を求める。

謎に包まれたもの、に対してはストーリーや一貫性を自らでつくる必要がある。余程魅力的なものでない限り、受け手はそんなことに時間を費やしてはくれない。

ストーリーが既にある、ということは客観性の有無にも関係しているのかもしれない。好きだ、という主観ではなく、自分の他にもこの対象を好きな人が多いらしい、という客観性。レビューで主観が歪むように、客観を重要視してしまう時代。

そうやってストーリーや一貫性や客観性を追求するあまり、本質を見失ってしまう。

今は過渡期と思えば、ゆくゆくは皆、ストーリーや一貫性に疲れてしまう時代がくるのかもしれない。

そんなことが頭の中に駆け巡るから、告知の類は苦手だ。

知の集積

徳井さんが研究に関するサイトを新しく、Notionベースで更新をしていた。 更新頻度も上がっている。 https://createwith.ai/

こうやって知の集積を公開していくことは大変意義があることで、自分もやるべきと思いつつ、QiitaやZennなどの技術ベースの記事すら公開できていない。

コミュニティに貢献すること。どこかのタイミングでそのスイッチを入れたい。まだそのときじゃない気がするけれど。

ps: かなりまとまってる気がするML4Aの情報 by Golan Levin http://www.courses.art.cmu.edu/2021s/60210a/daily-notes/04-12-ml-part-1/

役に立たないことを続ける

「役に立つ」ものこそ需要があり売れる、価値がある、というのが資本主義の原則だが、そもそも市場における「役に立つ」は今現在の尺度であり、将来どんなものが「役に立つ」かは誰も予想できない。だからこそ、すぐには役に立たない、理解できない、よくわからないものの可能性も排除すべきではない。

こういった言説を、最近色々な書籍や文章、特にビジネス書などにおいてよく目にする。

しかし、役に立たないことに向かい続けるのが難しいのは、何も会社に限ったことではない。個人においても、自分の興味にただひたすらに従って、一般的には役に立つか分からないことを続けること。それは並大抵のことではない。

信念と興味と情熱と、あとは仲間がいないととてもじゃないが挫折してしまう。

会社の役に立たないことをやらせてくれ、と不満を漏らす前に、それだけの覚悟を自分が持てているのか、をまずは自分に問いたい。独りよがりにならないこと。

多くの場合、役に立たずとも、いつかどこかの誰かのためになると思ってやっていることがほとんどだと思う。その顔をどれだけ思い浮かべることができるか。

そんなことを考えずに、心の赴くままに動くことはそれ以上の価値があると感じつつ。

まどろみながら

ごくたまに、ベッドの上でまどろんでいると昔のことを思い出す。

サザンを聴いていた夏の縁側とか、母方の実家の雰囲気とか、夏休みに通っていた小学校のプールとか。 その度、今とは全く異なる感覚に驚かされる。その頃の感覚は完全にいま影を潜めているなと想う。

まどろんでいると、ふと、いまの自分が、現実よりも若く感じられもする。 つまり、数十年後の自分が、いまのこのときを見ているような感覚になる。 大人になった自分が、昔のワンルームでの生活を思い出す。

漫画家が、駆け出しのトキワ荘での生活を回顧するようなイメージで。

とても不思議な感覚で、でも、すごく原体験に近い気がしている。

あの頃の感覚のまま、今生きられているだろうか。

炭酸水

ここ最近眠れなくなっていたので、一日中コーヒーはやめたほうがいいと思い、夕方以降は炭酸水にすることにした。これが思いの外快適だ。

初めはコンパクトでちょうどいいサイズ感、と思って250ml缶を箱買いしていたが、あっという間になくなってしまったので、先日ペットボトルを箱買いした。

夏の暑さもあって、1日1本のつもりが2本飲んでしまうこともある。甘くないのに、どこかサイダーを飲んでいる気分になっていくらでも飲めてしまう。

こういう些細なことでQOLが上がるの気持ちいい。

まとまった時間

毎日コツコツやるのが大事というのは大前提として、その毎日の作業もある程度まとまった時間が取れないと、延々に終わらない。

デイリーのタスクに縛られて、そういうことに時間を割けなくなってくるとそれはそれで何も身につかない。案外日中もタスクが細切れに中断されるので、朝か夜か、もう少し長く作業をしないとなと思う。

そんな気分なので最近はだいぶ寝不足…。

淡々と

眠い。書くことがなくなってきた。

淡々と作業を進める毎日。これが大事なんだろうなと思って進める。

ダンスアプリ、映像演出の準備。どれもうまくいくといい。

今目の前にあるもので

好奇心旺盛と言われることが多かった。でも単に、何かと目移りしやすい性格というだけなのだと思う。

書店ではいくらでも時間を潰せる。昼休み、食事は15分で済ませて残りは本屋で過ごすことが好きだった。興味ある棚から始まり、飽きると適当にふらついて平積みになっている新刊を眺める。立ち読みはあまりしない。

そろそろ帰るか、と決めてからも、出口まで歩く途中に表紙が目に入ると立ち止まってしまう。なので、意図的に目を逸らしてなんとか抜け出す。

どれだけ小さな書店でも、読み切れないほど膨大な本がある。数日で入れ替わる本もあると考えると、少しでも気になったものは手に取っておきたい。一生出会わない可能性もあるから。

でもそうやって購入しても、それで満足してしまうということもよくあったりする。積読になる。家にあるのはそうやってたまたま出会ったり、足を運んで購入した本が多い。せっかく家にそういうものがあるのに、外に目がいく。

それが最近、そうでもなくなってきた。毎日文章を書いていることが少なからず関係している気がしている。

毎日やる、ということを何でもいいから続けていると、生活の解像度が上がっていく感覚がある。自己啓発みたいで嫌だが、どうでもいいことでも、続けると変化の実感が湧いてくる。

目の前にあるもので発見があると、そこを追求するのも悪くないな、という気持ちになる。外向きだった希望が内向きに向いているのかもしれない。

単に年齢と好奇心が反比例しているだけの可能性もある。